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2024年8月   芳賀博子

今月の風

茄子のとげちぎる恋占いにして
黒田弥生

茄子のとげにこんな使いようがあるとは知らなかった。けれど良い子はマネしないでね。刺さると痛いですからね。もっとも、主人公は茄子の扱いにも手慣れていて、少しくらいのチクリなら平気な様子。また、親しみのある茄子の、そんなちょっとした油断のならなさも、ひとすじ縄ではいかない大人の恋を思わせる。かつてのレモンの恋とは違う茄子の恋。されど包丁の刃を入れると、白ほとばしり、恋のときめきはいつだってみずみずしい。

追いかけて待って忘れて整って
菊池 京

「整って」の一回転ひねりな着地にニマリとする。この「整って」がさりげなく意味深だなあ。くだんのサウナブームから生まれたサウナ用語の「整う」だとしたら、さらに読みにひねりが加わる。なんでも「サウナで整う」とは、サウナと水風呂を交互に入ることで得られる陶酔感のことだそうで、だとすると「追いかけて待って忘れて」は何度も繰り返しながら得てゆく恋の陶酔感? 

能動となるまでの時間の濃度
たかすかまさゆき

受動から能動になるまでにはどれほどの時間、いや「時間の濃度」が必要なのだろう。そして能動で、さて何を。音読すれば、句またがりのもっちりとした連なり、また能動=のうどう、濃度=のうど、が韻を踏み、句に4回登場する「の」の音もねっとりと、作品そのものの濃度をスリリングに高めている。濃密な心象句を熱帯夜にじっくり味わうのも一興で、味わうほどに背筋を汗が伝う。

六十歳の教え子たちの背中押す
吉田利秋

同窓会に「恩師」として招待を受けたシーンが浮かぶ。教え子たちも早六十歳。年相応の風貌に当時の面影がみられたり、みられなかったり。けれど人生百年時代といわれる昨今、六十歳は「まだまだこれから」だ。新しい夢や志を抱く教え子一人一人の背中を、今再び、かつてと同じように押してゆく。なんて素敵な再会だろう。あたたかい句だろう。上五を「還暦」や「定年」といった言葉に置き換えず、そのまま年齢で表現されているのもニュートラルでいいなと思う。

帰省して娘二十歳で実印の話
朝倉晴美

こちらは「ニ十歳」。久しぶりに帰省した娘に「もう、ハタチになったし、そろそろ実印も作っといた方がいいね」などと話しても、二十歳になったばかりの娘がぴんときているかどうか。でもこういった話は機会あるごとにきちんとしておくのが親の務め、と刷り込まれてきた世代。「実印の話」は実印のことにとどまらず、きっと「家」のあれやこれにも話が及び、それゆえか、五音におさまらず八音にまでふくらんでいる。その八音には親心もたっぷりと含まれている。

梅の木が見つめる空に戦闘機
伊藤良彦

「梅の木」が眼目。桜と戦なら、いささかつき過ぎになり従来のイメージが先行してしまうかと。さて、梅の木が見つめている空は、日本の基地の上空か、その先の遥かへつながっている戦地の空か。あるいはもしかしたら記憶の中の太平洋戦争の頃を、遠い目で思い返しているのかもしれない。はたして、この梅の木の樹齢は何年だろう。時空さまざまに交差する空で、戦闘機の姿が生々しい。

エクレアとセブンスターと茄子の馬
阿川マサコ

エクレア、セブンスターとカタカナが続き、「茄子の馬」で字面やトーンが一転する。一句が瞬時に物語になる。エクレアもセブンスターもお供えだったのだ。さて仏壇に祀られているのは一人なのか二人なのか。そのあたりは読み手に委ねられているけれど、ふた品それぞれにリアリティがあり、生前のキャラクターの片鱗が伺える。句から畳や線香の匂いも立ちのぼってくる。

蚯蚓腫れ何処かで誰か傷つけて
川田由紀子

ふっとひとり言みたいな川柳が沁みる。腕か足かの、小さな蚯蚓腫れに気付いたときの「あら?」・・川柳なんてやっていなければ、おそらく、その「あら?」以上でも以下でもない出来事。しかし川柳人の心の中では、そんな一瞬の「あら?」が呼び水になって、胸中が波立つのだ。蚯蚓腫れのひりりが、無意識のうちに誰かを傷つけた、その報いのように思われて。本作、リズムはなめらかながら、「蚯蚓」をはじめ漢字を多用し、屈託の印象を深めている。



月なき夜 内部クリーン運転音
石野りこ


月もない夜、部屋は静かで、エアコンの内部クリーン運転音だけが聞こえる。というか、目を閉じて、まるでその音に聴き入ってすらいるようだ。さらに耳を済ませれば、自身の体内からも自動清浄する音が聞こえくるだろうか。日々、世界中から怒涛のようにニュースがあふれる中で、心身の平常を保つのは難しい。「内部クリーン運転音」という無機質な言葉に、詩情を宿らせて秀逸。