2023年8月 芳賀博子
今月の風
革命に火をつけられぬ缶ビール
橋元デジタル
「革命に」と穏やかならぬ上五に始まり、プシュッで着地。その音にどこかほっとする。いまだ革命に点火できない理由はきっといろいろあって、タイミングとか勇気とか、もしかしたら大義そのものに一点の曇りあっての躊躇とか。うーん、ここは先送り正解かも。まあぼちぼちにいきましょう。こちらも缶ビール開けるんで、ひとまず乾杯しませんか。プシュッ。
プルタブを引く始まりの終わり
浪越靖政
ここにもプルタブを引いている人がいる。終わりの始まりではなく、始まりの終わり、に立ちどまる。つまり始まったばかりでもうジ・エンドなのだ。あれだけ周到に準備していたのにね。「プルタブで引く」は、ここで切れているとも「始まりの終わり」にかかっているとも読める。後者なら「始まりの終わり」缶。ともあれ缶だから、一気に飲み干してしまえそうだ。さてもオトナたちはこんな風に日々プルタブを引きながら、人生に折り合いをつけている、なんて。
ガチャガチャの中はいつでも桜桃忌
おおさわほてる
太宰治の忌日である桜桃忌とガチャガチャとの取り合わせが目を引く。ところでガチャガチャは、転がり出てくるカプセルに何が入っているかわからないのがお楽しみ。なのにいつも同じで、しかも桜桃忌。という状況こそ楽しんでいる風なのが面白い。句の余白に「人間失格」や「走れメロス」といった小説のタイトルも浮かび、太宰へのピュアなシンパシーが感じられる。重さと軽さ。ウェットとドライ。対極にある二物が寂しみと可笑しみを絶妙に醸し出している。
これ妻よ うちの箒で飛べません
杉山昌善
奥様は魔女、だったんですね。ごく一般人の素敵なダーリンと平穏なシアワセを掴んで、めでたしめでたし。のはずが、ときどき昔を懐かしがっては箒にまたがったりしているようで、齢を重ねても相変わらずチャーミングさんみたい。そんな彼女に「これ妻よ」と呼びかけ、「飛べません」と丁寧語で甘やかにたしなめる様子に愛妻ぶりが伺える。
弔合戦勝って点滴棒に朝
藤田めぐみ
弔合戦や点滴棒といった印象的な言葉に、時間やドラマが凝縮されている。まずは弔合戦。古風な一語に歳月が横たわる。満を持しての戦いに死力を尽くして辛勝した。しかしそのまま病院に担ぎ込まれて一夜明けての点滴棒。そう、点滴でなく点滴棒というのが眼目だ。点滴棒が弾いている今朝の光にゆるゆると目覚めながら、さてこれからどこへ向かっていかん。
泥濘は円周率で出来ている
岩田多佳子
ですよね、膝ポン!・・とはならない。にもかかわらず説得力があり、この言い切りの圧に思わず頷いてしまう。泥濘を平たくいうと、たとえばぬかるみ。けれど日常会話ではそう使わない「泥濘」だからこそ混沌感がより強く伝わってくる。そして実はそんな泥濘も美しくゆるぎない円周率で成り立っていることに、なぜか安堵。いつか解き明かされる日を信じよう。
たまに来る家族のためにあった椅子
渡辺かおる
「家族」という集合体。けれどもうみんな独立して、それぞれがそれぞれの都合のいいときに「たまに」帰ってくる。そんな家族のための椅子が「あった」、という過去形にはっとする。椅子は処分してしまったけれど、あった場所に今も記憶のぬくもりは消えない。物静かでてらいのない語り口が沁みる。
脳内のお花畑に水をやる
石野りこ
脳内お花畑、というスラングは要注意ワードだ。天然、能天気といった意味合いが、使い方次第でかなり辛辣になる。が、作者はそれを自身に用い、ユーモアをもってポジティブに変換、そして明るい一句に仕立てた。ほんにお花畑上等。なにかとギスギスしたせちがらい世の中をサバイバルするに、無邪気な夢や希望こそ大切。お花畑の花々はたっぷりの水をもらって、この酷暑にもめげず今日も元気だ。