2025年7月 芳賀博子
今月の風
スパイスを加える空が高くなる
平尾正人
スパイスを加える空、ではなく、「加える」で切れていると読む。アウトドアでスパイスとくればやっぱりカレーかしらん。ときて真っ先に浮かんだのはキャンプ場のカレー、ではなく懐かしのジャワカレーのCM。どこかのリゾート地の空のもと、夫婦でスパイシーなカレーをお洒落に味わっているあのシリーズです。もちろん本作は心象句としてとらえても心地いい。人生のスパイスをぴりっと効かせながら大人の休日を楽しめば、空は一段と高く広い。
瘡蓋をそぉーっと剥いでいる忌明け
笠嶋恵美子
「そぉーっと」。表記からして相当慎重。傷が癒えるまでには、まだまだ時間が必要なのはきっと自身もわかっているはず。けれど瘡蓋なるもの、つい剝がさずにいられないのが人間の性(さが)。「そぉーっと」剥いでゆくはなから、すでに何かがあふれ出しているようで、それはただ哀しみというだけでなく、おそらくもっと複雑ないろいろ。
失恋という傷口のフルーティー
真島久美子
ここにも傷口を見つめている人がいる。ところで、ある川柳仲間が「川柳人って瘡蓋とか傷が好きだよね」とつぶやいていたのを思い出した。確かに古今東西、さまざまな瘡蓋や傷が秀句を生んできた。どんな小さな痛みにもドラマがある。さて掲句、主人公は失恋にも長けた?恋の上級者と察する。失恋はときに痛みとともにフルーティーな陶酔をもたらし、その陶酔には中毒性があってなかなかにキケンらしいけれど。
合鍵なら預けましたよ朝顔に
西田雅子
蔓のしっかりした、あの朝顔なら大切な合鍵もしっかり預かってくれそう。しかしながらこれはどういうシチュエーションなんだろう。二人はどういう関係なんだろう。もしかしてこれは別れのセリフなのか? 合鍵を置いて家を出た? とすれば「預けましたよ」のさりげなく丁寧な言いようがいきなりひやりとした感触になる。いや、もっと素直に健康的に味わえばいいのかな。つと朝顔の花言葉が気になって調べてみたら、色によって花言葉も違うらしく「はかない恋」「あふれる喜び」「冷静」などなど。
なかまはずれ小二の頃は利かん坊
堀本のりひろ
まっすぐストレートな句。小二にリアリティがある。もう忘れてしまいたいような記憶も今となってふと懐かしくなり、書き留められたのだろうか。あの頃は確かに利かん坊でよく暴れもしてたからなあと自省もしつつ。さても、近頃はとんと耳にしなくなった「利かん坊」というノスタルジックな一語に、ちょっと鼻の付け根がツンとくるような愛嬌があり、主人公の少年時代が重なる。
柿若葉きらきら老いを寄せつけず
浅井ゆず
新緑のシーズンに、ことにもみずみずしい萌黄色で目を惹く柿若葉。「寄せつけず」の対象は作者ではなく、作者の口からつともれた老いへの吐息やら愚痴ではないかと思った。まだまだそんなトシでもないでしょう、これからでしょうとキラキラの活を入れられて、ちょっと気持ちをポジティブに方向転換して。なにしろ一年一年をきちんと重ねてきた柿の木の活ゆえ、説得力がある。
かなしみのとなりに椅子をひとつ置く
温水ふみ
舞台を眺めるように句を読む。かなしみという相棒のとなりに、そっと寄り添うように置かれる椅子。幼い頃からずっとそんなに支え合ってきたのかな。舞台はシンプルにただそれだけを見せて、両者はともに無言なのに、そのやさしい時間をそっと共有させてもらって、こちらのこころも落ち着く。かなしみは哀しみ、悲しみ、愛しみのいずれでもあるかと。
自販機のボタンを押したら夏の蝶
おおさわほてる
取り出し口からたまたま蝶がとびだした、というだけかもしれないし、SFチックに漫画チックに楽しく想像を広げたっていいだろう。もっとも蝶の自販機ゆえ、ひとつ間違えばホラーチックにもなりかねない。けれど、なぜか本作はのどかに郷愁を誘い、私の遠い夏休みの記憶とふわりとつながった。「ボタンを押したら」の中八は「を」を抜けばすっきり七音になるので、好みが分かれるところだろうが、このちょっともたっとしているところも含めて、愛おしい作品世界。
体内をせせらぎにして詩歌集
山崎夫美子
詩歌集を読んで浄化されるのではなく、ページをひらく前にまず体内をさっぱり清々しくせせらぎにしようというのが、詩歌好きならではかと。日常の慌ただしさやら雑念をとりはらい、一句、一首、一編と向き合う。本作においても、句に散りばめられたサ行の音が呼び水となって、余白からせせらぎの音や鳥の声などが聞こえてくる。ああ、夏だなあと思って、さてこの夏どんな詩歌集と出会えるだろう。