2025年10月 西田雅子
今月の風
下唇かんでF音天高し
宮井いずみ
悲しみや怒り、悔しいとき思わず唇をかみしめて、感情を堪えることがある。けれど、ここでは下唇をかんで発するF音。感情とは関係なさそうである。F音は下唇を軽く噛んで、息を摩擦させることで生まれる子音。耳を澄ませなければ、聴き逃してしまいそうな微かな音である。唇の小さな動きから放たれた途端、空気の中へ儚く消えてしまいそうだが、ここでは、一瞬の唇の緊張のあとの小さな解放感がある。F音の鋭さや透明感が「天高し」と重なり、秋の澄んだ空気に、F音が突き抜けるような爽快さがある。
本懐を遂げたか鍵は外せたか
笠嶋恵美子
「本懐」とは、人生の目的や真の願いを指す言葉で、それを「遂げたか」と問いかける響きには、到達したはずの目的に確信を持てず揺らいでいるような不安が感じられる。続く「鍵は外せたか」には、目的を果たしたとしても、心を縛る「鍵」、不安や他人の目といった束縛から解き放たれたかと、真の自由を得られたか自問自答している。「遂げたか」「外せたか」と畳みかける表現からは、自分だけでなく、読み手にも投げかけられているような緊張感が伝わってくる。
満月に少し隠れる穴を掘る
山崎夫美子
幻想的でどこか寓話的でもある。満月は明るく照らし出す夜空の象徴でもあり、晒されれば隠れる余地がないような。その満月の光の下で、「少し隠れる」という行為は、完全に姿を消すのではなく、ほんのわずかでも逃げ場や余白を求めて「穴を掘る」のである。「穴を掘る」とは、隠れる手段としては原始的で孤独な行動であるが、それだけに人間本来の動物的な逃避行動なのかも。どんな光よりも、満月の冷たい光にさらされるほど、恐ろしいことはないのかもしれない。
階段の途中で人に戻ります
伊藤良彦
階段という場所は、上でも下でもないある移行地点や境目。その場所で「人に戻る」とは、仕事や家庭で背負う肩書や役割、あるいは社会的な役割を一時的に脱ぎ、素の自分を取り戻す瞬間を指しているのかもしれない。満員電車から降りたとき、帰宅して部屋に入る直前など、ふと自分を取り戻す “間” の感覚が、この一句に込められている。また、「途中で」という言葉から、完全に役割から解放されるわけでもなく、ずっと演じ続けているわけでもない、心の揺らぎを表現しているよう。
ざっくりと編んだ記憶の風通し
菊池 京
「ざっくりと編んだ記憶」とは、毛糸を編むような手仕事を連想させつつ、記憶そのものが精緻に整理されるのではなく、大きな目で粗く編まれている様子が映し出されている。そのため、隙間から「風通し」が生まれ、心地よさを感じつつ、忘却や記憶の欠落も生じる。記憶をぎゅうぎゅうに詰め込まず、空気を通すように受け入れているのか。ざっくりと編まれたものは壊れやすくもあるが、その不完全さに柔軟性があるともいえるのかもしれない。その粗い目からゆっくり時間を呼吸するような。
ぴったりとラップを掛けて自己管理
川田由紀子
食品にラップをかけるのは、保存や衛生のため、あるいはレンジを使用する場合で、極々日常的な生活感あふれる行為である。「ぴったり」から単なる保存以上の几帳面さや潔癖さを思わせる。それを「自己管理」とすることで、冷蔵庫に並ぶラップをされた器やタッパーが、自分自身を律するように思われてくる。健康や節制に対する過剰なまでの自己管理は、ラップを通して、現代社会の空気を反映しているようである。
谷折りの谷底からの秋の空
芳賀博子
「谷折り」という折り紙を思わせるような言葉から、紙を折ると生まれる「谷」が、そのまま深い谷底のイメージへと繋がり、視線は自然と下へ降りてゆく。底から見上げれば、ひらけているのは澄んだ「秋の空」。閉じられたような「谷折り」から、高い秋天の広がりへと抜けていく感覚が鮮やか。谷底に立ちつつ空を仰ぐ姿は、人生の折り目や底にあっても、広々とした世界の先に希望を見出す姿にも重なる。
行くさきざきの信号無視を強いられる
飛伝応
えっ、信号無視!?これって、一番やっちゃいけないやつ、じゃない?それも「行くさきざきの」って…。あきらかな個人の違反行為を「強いられる」と、あたかも他人の所為のよう。もしかして、青にならない信号だったりして。いやいや、時間に追われる生活、現代社会における規制や不条理等々、そうした状況に追い込まれた結果の「信号無視」なのか。個人の意思では抗えない窮屈な現実。
ポカンポカン今の私を受け入れる
弘津秋の子
「ポカンポカン」は、空に浮かぶ雲のよう。今はあまりいい状況とは言えないけれど、考え込まずに「まあいいか」と力を抜いて、今の自分を受け入れる。深刻さはなく、ポカンポカンからユーモラスで伸びやかさが感じられる。この抜け感がいい。完璧さを求めず、拍子抜けするほど自然体でいる姿勢は、現代版自己肯定のひとつの形なのかもしれない。ポカンポカンとするには、絶好の季節がやってきた。