2025年5月 芳賀博子
今月の風
傾聴をほめてもらってから無口
吉田利秋
本来話し好きで、隙あらば茶々を入れたいタイプの主人公。けれどひょんなことからお相手の身の上話に思わず聴き入り、うんうんとおとなしく頷いていたら、思いがけずほめられた。「優しいお方だねえ、ありがとうね、ああ、心のつかえがとれました」なんて。まこと面映ゆくもその笑顔がいたく嬉しく、以来、無口を決め込んでいる。だから句の最後もぴしっと体言止め。でもその「無口」の口が、すでにもぞもぞして見えるのが可笑しい。
辻褄のすき間を埋めるイヌフグリ
森平洋子
茶目っ気と詩情を湛えた春らしい作品。いまや稀少ともいわれる在来種のイヌノフグリはピンク色ながら、歳時記で「いぬふぐり」といえば明治初期に帰化した外来種のオオイヌノフグリを指し、花の色は一般にお馴染みのブルー。さても辻褄って取り繕おうとすればするほど、ほころんでゆくし、きっと周囲もお見通し。でもイヌフグリはタフだから、どんなに隙間が広がろうと次々花を咲かせ、その可憐なブルーでみんなの頬をゆるませてしまう。
おろおろと廃校の桜見に行く
重森恒雄
廃校は母校だろうか。廃校になっても毎年見事に花を咲かせてくれている校庭の桜をおろおろと見に行くとは穏やかではない。一体何ごとだろう。たとえばついに伐採が決まったとか。あるいは、自身にただならぬことが起き、気を落ち着けるために訪ねたのかも。私は後者のシーンに、より惹きつけられた。「おろおろ」という人間くさいオノマトペが、閑散として美しい桜の景にドラマを立ち上げてゆく。
うす味の過去形になる母の夢
海野エリー
「母の夢」は、母がみている夢とも、母が登場する夢とも読める。が、前者の「母」には、ことに中高年世代にはしみじみと実感を伴ったさまざまな感慨を呼び起こしそう。幼い頃からずっと抱いていた夢も、どこかの時点で叶わぬことと受け入れ、ふっと未来形から過去形になる。でも、すっかり消えてしまうわけではなくて。うす味になった夢を反芻するひとときは、ほろ苦くほの甘い。
鳥になる夢が膨らむ紙風船
黒川佳津子
もうひとつ「夢」の句。鳥のように自由に空をはばたきたい自身の思いが紙風船に託されている。されど、紙風船は空どころか天井にすら届かずに落下するし、打ち返せばワシャとへこむ。でもそのワシャの音や手ざわりが愛おしく、小さな子どもと声立てて笑うひとときなど浮かんだ。あの、カラフルなのにちょっとくぐもった色合いの紙風船と戯れるとき、主人公のこころはすでに鳥とも思う。
スプリングコートはためくたび蝶語
黒田弥生
こちらは蝶。明るい色のスプリングコートが風にふくらみ、はためく様子は、まるで蝶のはばたきのよう。そしておしゃべりしているよう。本作、蝶ではなく「蝶語」として、単なる見立ての句から軽やかに飛躍して世界を広げている。スプリングコートを介して多種多様な蝶とコミュニケーションをとるファンタジックな映像にうっとり。
母の日や夕暮れ色の紫蘇ジュウス
村田もとこ
ビタミンやミネラルが豊富で、健康にも美容にも良いといわれる紫蘇ジュース。その赤紫の色合いが「夕暮れ色」と表現され、穏やかな中にもいささかアンニュイな気分が滲んでいる。母の日に母を思い、また自身の母としての日々をしみじみ振り返っているのだろうか。ジュウスというクラシカルな表記にも、ちょっと渋みある味わいがあり、このドリンク、身にしみ渡り、よく効きそうである。
鼻歌もきみはやっぱりボヘミアン
峯島 妙
鼻歌もボヘミアンとくると、つい曲名が浮かぶ昭和世代です(笑)。クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」に葛城ユキの「ボヘミアン」。ちなみに前者は1975年(昭和47)で後者は1983年(昭和58)にリリースされ、どちらも楽曲はもとよりファッションも時代とリンクして大ヒットした。それ以後に生まれた方もYouTubeでどうぞ。さて本作。「やっぱり」と言わしめる理由は書かれていないものの、今もワイルドを秘めた「きみ」という相棒への愛情など感じられる。
辺境のポストぶっきらぼうにいる
阿川マサコ
辺境のポスト。もうそれで掴まれた。ポストは擬人化されて、長い影を落とし、ぶっきらぼうながら何かを語り出しそうである。いろんな清濁併せ吞んできたんだろう。今後辺境はさらに過疎化し、ポストのこれからも心許ない。なんたってこのデジタル社会だ。にもかかわらず景ひろびろと大らかで、ああ、いつかこの地を旅してみたいと思った。運よくポストにも巡り合えたら、一枚のハガキを投函しよう。あれっきりになってしまった、かの友に宛てて。