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2024年12月   西田雅子

今月の風

風船ガムぱちんちゃんと晴れたでしょ
宮井いずみ

子どもの頃、一時期流行った風船ガム。ぶーっと膨らませて、ぱちんと割れて、口のまわりにべちゃっと張り付くあの感覚は、ちょっと苦手だったような。が、ここでは、「ちゃんと晴れたでしょ」と、とてもポジティブで、自信をもって言い切っている。ぱちんと割れる音には、弾ける爽快感や軽快さがあるかもしれないし、風船ガムが膨らんで、割れる瞬間に自由や解放感を感じて、確かに、それは晴れた空と通じるものがあるような。

片側のふくれっ面が離れない
藤山竜骨

「片側のふくれっ面」のもう一つの片側はどんな表情?そちらの方が気になる。表向きは怒りや拗ねた態度を見せているけれど、その裏側には本当の感情が潜んでいる可能性が。たとえば、寂しさ、気まずさ、あるいは謝りたい気持ち等。それは、たいてい親しい間柄だからこそ起きるもの。親密さがあるからこそ、隠された本音が切なくも温かく感じられる。

わたくしの影が痛がるから解散
峯島 妙

痛みを感じるはずのない「影が痛がる」のは、精神的な痛みを象徴しているよう。影は、自分の分身や本心、あるいは「後ろめたい何か」を暗示しているのかもしれない。また痛みは、葛藤や他者との関係性からの緊張感か。自分の一部でありながら、自分から分離した存在としての影。「影が痛がる」とすることで、「解散」という大きな決断から一歩距離を置き、責任をあいまいにしているようにもとれる。影は思いのほか、大きなものを背負わされているのかもしれない。

愛されようが愛されまいが出るキノコ
浅井ゆず

今では、1年中出まわっているキノコだが、秋の定番の食材の一つがキノコ。キノコ大好き!から、ちょっと苦手、という人も。私は子どもの頃苦手だったが、今では大好きに。キノコは、ある環境が整うと自然に発生し、静かにそこに存在する。キノコが森の中や木の陰でひっそり存在する姿は、人の目に触れなくても、評価や承認を必要とせず、その環境に適応し、一生を全うするかのよう。どこか神秘的で独特な雰囲気のあるキノコは「愛されること」や「注目されること」からは、超越した次元に生きているようだ。ただ淡々とその場所で。

三分の二カーテン閉めるわたしです
渡辺かおる

「カーテンを閉める」という日常的な行為でありながら、「三分の二」に立ち止まる。単なる物理的な動作でなく、心理状態を暗示しているのかもしれない。全てを閉めずに三分の二、だけという微妙な加減は、完全に心を閉ざすのではなく、外の世界との距離も保ちたいということか。三分の二の曖昧さが、読み手にそれぞれの三分の二を、カーテンの背後にあるものを考えさせる。

ドンドンと三人組が戸を叩く
森 廣子

冒頭から「ドンドン」というオノマトペが、何やら不穏な空気に。静かな空間に突如として現れる「ドンドン」で緊張感が生まれる。また「三人組」の「三人」も「組」も独特の雰囲気がある。「三人組」は、親しい間柄かもしれないが、不気味さも含んでいる。誰なのか、なんの目的で来たのか明示されないまま。「戸を叩く」も象徴的で、物理的なできごと以上に、何かが境界を越えてくるという不安感も思わせる。この先、どういう展開になるのか。オノマトペや人数の選び方が巧み。

視線外せばこなごなに散る暮秋
山崎夫美子

一瞬でも視線を外せば、こなごなに散ってしまうということだろうか。ここでは、何がこなごなになるのかは書かれていないが、目をそらせば壊れてしまうような、とても儚く危ういものかもしれない。「こなごな」という言葉には、破壊的で、元に戻らないイメージがあり、枯れ葉が風に激しく舞う姿が浮かぶとともに、張り詰めた感情や心の崩壊をも思わせる。「暮秋」が、単なる季節の移ろい以上の、何か大切なものの喪失感を暗示しているとも。

ステレオの誘導棒に歩をふたつ
河野潤々

実家にあったピアノとステレオは誰も弾かない、誰も聴かないまま、置き物、あるいはオブジェのように居間に置かれていた。そのため、「ステレオ」という響きには、どこか昭和のレトロっぽいイメージがあるが、その「ステレオの誘導棒」からは、ほの暗く灯るメモリ盤に沿って、電波を調整するラジオのチューニングを思わせる。クリアな音を聞き取るまで慎重に細やかな調整が必要である。将棋の駒の小さな単位の「歩」が「ふたつ」とあるが、二人が力を合わせて、こつこつと地道に、クリアな音を探しに歩んでいく姿だろうか。

水色の光ぐわんと散らす羽
斉尾くにこ

「水色の光」から、透明感と爽やかさが、「ぐわんと」からは、静かな情景に力強い動きが感じられる。羽ばたきや飛翔の力強さと、大きな円を描くような躍動感。場所や何の羽かは不明だが、「ぐわんと」が印象的で、自然の中の一瞬の輝きを詩的にとらえた一句となった。